『封印される不平等』 橘木俊詔(著) 斎藤貴男(著) 佐藤俊樹(著) 苅谷剛彦(著) 20047月 東洋経済

 

 

学者のアプローチである。実社会の感覚から少々ずれているといったら、言い過ぎであろうか。

 

全体を通した論点としては、日本で拡大しつつある格差(これを不平等化と捉えている)を所得の再配分、とりわけ税制をいじることで是正しようというところに主眼がある。このような議論は大学の研究テーマとしては面白いかもしれないが、問題解決の実効を求めるという実学からはかなりかけ離れている。少なくとも私には、30年以上前に大学生の間で流行った「資本主義」か「社会主義」かというイデオロギー的な議論からそれほど進歩していないように見える。

 

格差社会の拡大と米国との比較

 

「格差社会」あるいは「下流社会」が一つの社会問題になってきていることは事実であり、私の周りでもそのような問題を抱えている人を目にする。この点で、格差が拡大しているという橘木氏の指摘は正しい。しかし、一方で日本が米国型の社会に近づきつつあるという現実、他方で米国は極端な不平等社会であり、望ましくない社会であるという前提で、日本の社会のあり方を議論している点に少々乱暴さがある。

 

例えば、著者らの対談の中で、苅谷氏が大学の学生に「もし、生まれ直すとしたら、アメリカですか、日本ですか」と聞いたら、比較的多くの学生が「日本と答えた」といっているが、この質問には意味がない。問われた大学生のうち、いったい何人が米国社会で教育を受け、生活をし、働いた経験があるのだろうか。多分彼らの頭の中で描く「米国社会」とは耳学問の世界でしかないし、例え、12か月旅行したところで、米国の実社会、さらには社会競争のなんたるかが分かるはずもない。もし、同じ質問を中国の学生、フィリピンの学生に問うたならば、全く違う答えになるだろう。

 

学歴社会についてもかなり短絡的な部分がある。米国は学歴社会である。これは正しい。しかし、橘木氏も苅谷氏も東大の先生だからであろうが、日本の学歴社会について東大を筆頭とした序列構造で見ている。しかし、米国における学歴を「ハーバード大学(のMBA)を頂点に」と考えているならば、間違っている。

 

日本では、東大と京大すらその偏差値で格差付けし、どっちが上かというばかげた議論がまかり通っているが、米国ではトップグループの大学という範疇はあっても、大学間の絶対的なヒエラルキーがあるわけではない。むしろ何処で何を学んだかの方が重要である。ハーバードのビジネススクールは確かにブランドだが、学問としての経済学ならばシカゴという評価は高い。そのビジネススクールの評価でも、ここ数年ハーバードはトップになっていない。

 

大企業の経営者についても同じである。トップに上がるには確かに学歴は重要な要素であるが、ハーバードのMBAさえあれば、上に上がれるというほど米国のビジネスは甘くない。ビジネスウィークが毎年発表するトップ経営者がどのような学歴を持っているかを見ればよく分かる。学部、ビジネススクール(あるいは修士)さらにはPhDと、非常に多様である。そもそも、学部と大学院(ビジネススクール)を同じ大学で卒業(終了)するというのは少数派であろう。

 

市場競争の英米型社会か、福祉重視の北欧型社会か

 

これも少々時代遅れの感は否めない。全く欠けている論点は、経済がますますグローバル化するという現実である。日本社会だけの閉じた議論で問題は解決できない。

 

デンマーク、スウェーデン、ベネルクスといった国々の生き方は確かに一つのモデルとなる。しかし、彼らの人口は数百万から1000万人台であり、社会的、経済的な環境が日本とは大きく異なる。13000万人の日本の経済、雇用をどのように保証するかを考えるならば、個人の税負担を上げてそれを社会還元するという北欧型社会をそのまま導入することができるだろうか。日本の経済規模は余りにも大きくなりすぎているし、特定の強い産業と大規模な公共部門だけで1億人を超える国民を支えることは不可能である。

 

日本の大学の大半はグローバル化の対極にあるが、日本経済を支える企業はすでにそれを受け入れている。経営戦略は世界市場を見ており、依然として重要ではあるものの、日本国内の事情は一つの条件でしかない。否が応でも国際的な市場競争の中に身を置かざるを得ない。

 

税制の累進制強化や金持ちの負担の拡大で問題が解決できるのだろうか

 

億単位の収入を取る人たちの足を引っ張っても、社会全体の底上げにはならない。かつては平等であったという1960年代の高度成長経済の頃は、金持ち層の累進税率は厳しく、皆が平等に富を分かち合ってきたのは事実である。しかし、それが出来たのは安い人件費と1ドルが360円という為替を背景として、規格品の大量生産による輸出で富が獲得できたからである。御輿にぶら下がる人がそこそこいても、それを補って余りある全体の伸びで一気に経済のパイを拡大することが可能であった。日本がますます知価社会に変化していく中で、昔を懐かしんでも解決にはならない。

 

国立大学の授業料

 

東大生の親の平均収入が1000万円を超えるという話は有名である。橘木氏は金持ちの子弟の教育に税金を投入するくらいならば、授業料をもっと高くして、金を取るべきべきだと言う。貧しい者に対しては、奨学金を充実させれば彼らの教育機会を取り上げることにならないとも言う。しかし、これは果たして正しいのだろうか。

 

私の子供は北大で学んでいるが、入学式の印象は私のこれまでの経験とは全く異なったものであった。横浜にあった高校に通っていた当時の父母会の印象は、明らかに皆様お金持ちというものであった。着ているもの、手にしているものに、それが端的に表れていた。しかし、札幌での入学式はそれとは全く異なっていた。かなりの父母の方々は質素な身なりであった。彼らにとって、我が子に多額の仕送りをして東京の大学に通わせるという経済的負担は非常に大きいのではないかと、身をもって感じた次第である。

 

東大も東京圏を主体とする地方大学化している。所得水準の高い親が子供に十分な教育費をかけなければ、東京の大学に通わせることは難しくなってきている。東京という経済圏で生活している人は圧倒的に有利である。

 

地方に行けば、授業料の安い国公立大学しか目指すことができない人は多い。国公立の授業料をさらに上げれば、相対的に所得水準の低い地方で生活している人々からさらに教育の機会を取り上げることにもなりかねない。

 

私学との授業料格差問題は別途議論すべきであるが、日本の資源は人しかない。この点で税金を教育に投入することをケチるべきではない。

 

格差社会問題の解決

 

少なくとも所得を再配分して平らにすれば、格差問題が解決できるという考え方は支持できない。今問題となっているフリーターをどのように社会に適合させるのか、同じ仕事をしながらパートタイム労働者と正規雇用者との間に存在する給与格差をどのように是正するのか、子供を持ったら今の仕事が続けられなくなってしまうと嘆いている女性たちをどのように助けるのか、もっと個別の問題を丁寧に議論しない限り、問題の可決につながるとは思えない。

 

もっとも、著者らは、それは政治の話であり、経済学者の議論ではないというのかも知れないが、それではますます大学は実社会から離れていってしまう。

 

 

 

 

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